原因が大気汚染や紫外線ならまだ対処のしようがあるし、禁煙や緑黄色野菜で予防できるのなら個人的にも対応できる。
これが「体質」となると、親をうらむ以外にすることがないかに思われてきた。
しかし、最近になって遺伝子の役割がどんどん解明されてくると、その方面の専門家がしばしば「体質」という古めかしい言葉を発するようになった。
中には、自分のDNAを分析してp53やMSH2をはじめとするガン関連遺伝子に問題がある(要するにガンになりやすい体質である)と判明したら、若いうちから頻回・定期的に精密検査を受けたり、はなはだしきはガンが出来そうな臓器を前もって予防的に切除してもらったりする研究者までいるらしい。
そこまで本気になるということは、禁煙や日焼け止めクリームぐらいでは安心できず、自分が「なりやすい素質」ならもっと積極的に発病を予防しなければならないと認めているわけである。
そんな専門家でも、一般向けに説明する時には「遺伝子です」「体質です」「なりやすい人、なりにくい人がいます」と露骨に言わない。
実際、はっきり遺伝性疾患と言えるほどのガンはごく一部で、残る大部分は「素因(体質・素質)×外因(環境・習慣・刺激・物質)」といった複合的要因の最終産物として発病する。
このうち、今日の段階で対処できるのは「外因」をどれだけ減らせるかだけだから、そればかりが強調されるのである。
これなら一般人にも行政機関にも保健指導者にも、出る幕がある。
自分たちが何か努力して操作すれば予防できるという観点や信念は好ましい(実際には「しないよりはマシ」程度であっても)。
そこで素因のことは頬被りして、あまり声高に言わないでおこう、ということになる。
しかし、将来、遺伝子工学による予防措置が実用化された頃には、煙草も吸い放題、野菜嫌いなら肉ばかり食べていてもよい、ということになるかもしれない。
このことは次のような歴史的推移に徴して納得がいくはずである。
たいていの病気に関して、確実に治せる技術がいきわたると、それまでの「生活上の注意」みたいなあやふやな養生法は強調されなくなる。
たとえば最近の結核患者は、卵や牛乳で栄養を摂れ、転地療養しろ、カルシウム注射がよい、などとアドバイスされない。
抗結核剤が出回るまでは、そんな「しないよりはマシ」程度の保健指導をするしかなかったから熱心になされたのである。
また、それまで治療の基本とされていたサナトリウムでの安静療養が自宅療養に比べてメリットがないと実証されたのは一九五〇年代末であった。
かつて消化性潰瘍はへたをすると死病(現に夏目漱石はこれで死んだ)か手術を要する重症疾患で、やれ刺激物は控えろストレスは避けろと無理な注文めいた指導が熱心になされたものである。
最近では、H2ブロッカー、プロトンポンプ阻害剤、ヘリコバクター(いわゆるピロリ菌)除菌など、おりとぴしゃりと治してしまう方法が普及したので、死亡例や胃切除が激減したのはもちろん、刺激物だのストレスだのの注意をうるさく言わなくなった。
あれはいったい何だったんだろう。
かわいそうに、漱石は医者や細君から砂糖菓子はいかん落花生は控えろなどとうるさく言われていた。
今なら、そうした好物の御法度もなく、もちろん五十前に死ぬこともなかったし、『明暗』も完成できただろう。
確かに刺激物やストレスは胃・十二指腸潰瘍に「よくない」のだが、かつて目の敵にしたほど潰瘍の元凶といったものではなかった。
昔は、それらを控えることぐらいしか対処のしょうがなかったので重要視していただけなのだ。
してみると、今日、煙草やお焦げやカビその他の発ガン性が騒がれているが、そのいずれかがガンの「原因」と言えるほど決定的なものかどうか疑わしい。
そんなことを言えば、都会で排気ガスを呼吸しながらアスファルトの蒸気の中を歩き、太陽光線にあたり、新建材の部屋に住んで地下からラドン放射線を浴び、水道水・農薬・添加物・防腐剤を口に入れること、つまり現代生活のほとんどの側面が変異原性(発ガン性)を潜ませているのである。
この変異原性の度合いを簡単に測定する方法を開拓したB・エイムズは、驚くべきことに、健康によいとされる多くの自然食品(たとえば野菜や果物)にも無視できないほどの発ガン物質が含まれていることを指摘した。
もちろん、無農薬有機栽培でも例外ではない。
つまり、あれこれの人工化学物質同様、あれこれの天然産物にも抗酸化物質ともども発ガン物質が何種類も含まれていたのである。
われわれの周囲には敵味方が入り交じっていることになる。
実を言うと二十世紀前半は素質重視の時代だった。
それが後半になって環境刺激の発ガン性が注目されだし、次々に有害な物理刺激・化学物質が特定されていった。
産業敵視派は環境汚染を槍玉に挙げ、個人責任追及派は生活習慣を問題視したが、ともに有害な「元凶」を外部に想定している。
皮肉にも、あまりたくさん発ガン刺激の種類がリストアップされたものだから、そのいずれとも無縁なまま生活できる現代人はいないことになった。
ほとんどの都会人が数種類以上の発ガン刺激にさらされて生きているのなら、発病する者としない者との違いは単に喫煙本数と緑黄色野菜摂取量だけで決まるはずがない(肺ガンや喉頭ガンでさえ、それらで百パーセント決まったりはしない)。
『粗食のすすめ』(東洋経済新報社芯呂)で一躍脚光を浴びた管理栄養士の幕内秀夫氏のもとに、「肉ばかり食べていた夫はどうもないのに、野菜をしっかり食べていた私かガンになったのはなぜですか」という主婦からの質問がきたことがあるらしい。
もっともな疑問ではあるが、解答そのものは簡単である。
「元々のガンになりやすさが等しければ、肉ばかり食べているほうが野菜をしっかり食べるより危険です」と答えればよい。
この夫婦の場合、口几々のなりやすさ」があまりに違いすぎたのである。
以前、強力な発ガン物質を溶かしたプールで数年間サメを飼育する実験が行われたことがある。
あとで解剖したところ、どこにもガンは見られなかった。
このことから、サメの軟骨成分に発ガン抑制作用があるのではないかと言われだしたのである。
考えようによっては、都市生活を送る現代人の一生も、発ガン物質を溶かしたプールで飼われているようなものなのだ。
サメのように発ガンしにくい人もいれば、他の硬骨魚類のように発ガンしやすい人もいる。
わたしは、今回の病気がわかるまで、自分のような酒客・愛煙家は六十代で肺ガンないし七十代で食道ガンぐらいで死ぬだろうと思っていた。
しかし血縁者にガンは少ないから、その前後で虚血性心疾患のために死ぬ可能性も大きい、でさればそちらのほうが有り難い、などと思っていた。
もともと緑茶は好きで、ここ数年は意識してカテキン類を摂ってきたし、サプリメントとしてビタミンCやEも毎日服用していたから、少なくとも還暦ぐらいまではガンにも心筋梗塞にもならないだろう、と思い込んでいた。
しかるに、五十代前半で直腸ガンというのは青天の露言である。
そんな病気は、洋食の好きな便秘気味の人がなるものだと高をくくっていた。
つまり、それまで疫学的な常識を信じていたのである。
しかし、どんな生活をしていようが、なる時にはなるようである。
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